2009年06月16日

ウェルシュ菌(うえるしゅきん)とはクロストリジウム属に

ウェルシュ菌(うえるしゅきん、学名:Clostridium perfringens)とはクロストリジウム属に属する嫌気性桿菌で自然界に広く分布している。ヒトを含む動物の腸内細菌叢における主要な構成菌であることが多い。少なくとも12種類の毒素を作り、α,β,ε,ιの4種の主要毒素の産生性によりA,B,C,D,E型の5つの型に分類される。Clostridium perfringens B型菌の毒素はヒツジの赤痢の原因となる。

かつてClostridium welchiiという学名で呼ばれていたことがある。ウェルチ(William H. Welch)が分離培養し1892年にBacillus aerogenes capsulatusと命名したが、後年ウェルチにちなんでBacterium welchii Migula 1900という学名が与えられ、ついでBacillus welchiiやClostridium welchiiと呼ばれるようになった。しかし命名規約上はBacterium welchiiよりも早く命名されたBacillus perfringens Veillon and Zuber 1898に優先権があるため、これが1937年にクロストリジウム属に移されて現在の学名として登録されている。
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グラム陽性非運動性偏性嫌気性であり、生体内または血清添加培地で増殖した場合、莢膜を形成する。一般に芽胞は形成されにくい。至適増殖温度は43-49℃。分裂時間は45℃で約10分間と短い。

毒素 [編集]
A型菌はα毒素,B型菌はα,β,ε毒素,C型菌はα,β毒素,D型菌はα,ε毒素,E型菌はα,ι毒素を産生する。

(α)アルファー毒素は、ガス壊疽の際の毒素で組織破壊作用があり、肺から吸引した場合、致命的な肺の障害を起こす恐れがあり他の生物兵器同様、テロリストによる使用が懸念されている。
(β)ベータ毒素は、壊死性腸炎の際の毒素で組織破壊作用がある。
(ε)イプシロン毒素は、動物実験で神経毒性が見つかっている。
(ι)イオタ毒素は細胞毒性を示す

ウェルシュ菌はその発症機序、病型により、ガス壊疽、出血性腸炎、エンテロトキセミア、食中毒の4種に区別される。

ガス壊疽
主にA型菌により全身中毒症状を示す。但し、全てのA型菌がエンテロトキシン生産性を示さない。
出血性腸炎またはピグベル( pigbel )
C型菌により腸炎を発症、腸管に壊死性病変、出血性病変を形成する。パプアニューギニアの高地で多い。
エンテロトキセミア
毒血症を示す。詳細はエンテロトキセミアを参照。
食中毒
給食病または給食菌( food service germ )やカフェテリア菌( cafeteria germ )の別名で呼ばれることもある。A型菌の産生するエンテロトキシンによる生体内毒素型の食中毒である。芽胞が一胆高温処理される事で芽胞形成能が活性化され、同時に溶存酸素が減少すると共に競合する他の菌が減少し増殖の好条件が成立し、緩徐に冷却される間(至適増殖温度)に食品中で増殖する。毒素の摂取ではなく原因菌の1千万-1億個以上の摂取により、腸管内で菌の増殖と共に芽胞が形成され同時に毒素が産生され毒素により発症する。[2] 8~20時間の潜伏期の後、水様性の下痢を引き起こす。腹痛と下痢は必発であるが嘔吐、発熱は見られない、1~2日で回復し、予後は良好である。[3]
芽胞は100℃ 1時間の加熱でも不活性化されず、食品中に残存する可能性がある。[2] タンパク性食品が原因食となる場合が多い。

2009年05月30日

城明け渡しと慶喜の水戸退去

江戸へ再来した西郷は勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、4月4日には大総督府と徳川家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷らが兵を率いて江戸城へ入城した。同時に徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨が下された。この勅旨を受け、11日には慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、東征軍が接収した[47]。

それより前、4月8日に東征大総督有栖川宮は駿府を発し、同21日江戸城へ入城。ここに江戸城は正式に大総督府の管下に入り、江戸城明け渡しが完了した。また京都では4月9日、明治天皇が紫宸殿において軍神を祀り、徳川慶喜が謝罪し、江戸を平定したことを報告している。
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海軍副総裁の榎本武揚は徳川家に対する処置を不満とし、約束の軍艦引き渡しを断固拒否していたが、徳川慶喜が寛永寺から水戸へ移った4月11日、抗戦派の旧幕臣らとともに旧幕府艦隊7隻を率いて品川沖から出港し、館山沖に逃れた。結局、勝の説得により艦隊はいったん品川に戻り、新政府軍に4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)を渡すことで妥協したが、これにより降伏条件は完全には満たされなくなった。その後も再三にわたり勝は榎本に自重を求めたが、徳川家に対する処分に不服の榎本はこれを聞かず、結局8月19日に8隻(開陽・回天・蟠竜・千代田形・神速・長鯨・美賀保・咸臨)を率いて東征軍に抵抗する東北諸藩の支援に向かった。後に榎本らは箱館の五稜郭を占拠し、最後まで新政府軍に抵抗した

2009年04月27日

保有戦車のほとんどを失ったソ連

保有戦車のほとんどを失ったソ連は、アメリカ・イギリスから兵器供与を受ける一方、戦車生産をT-34とKV-1中心に絞込み、シベリアやウラル山脈以東に疎開させた工場で大量生産を始めた。また、ドイツの突撃砲を真似て、T-34とKV-1の車体を用いた自走砲を作成し運用した(SU-122、SU-152、SU-85)。
戦車の補充を得たソ連軍は、三個戦車旅団と一個自動車化狙撃兵旅団で構成される戦車軍団を編成した。この戦車軍団は、名称こそ師団より上位の軍団であるが、規模は他国の師団よりやや小さいものだった。

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1942年5月、半数を供与戦車で構成した約10個戦車旅団を動員して、南部戦線で反攻に出た(Cf.第2次ハリコフ攻防戦)が、まだまだ兵員も指揮官もドイツに比べ未熟であり、ドイツ軍に殲滅され、貴重な戦車戦力を失い、スターリングラード攻防戦に至るドイツの南方作戦が始まると、後退戦術をとるしかなかった。
兵員・指揮官の熟練度が上がり始めると、圧倒的な生産力でドイツ軍を撃破し始めた。スターリングラード包囲戦とクルスクの戦いに勝利し、以後は一方的にドイツ軍を押し捲った。
大型トラックが、ソ連でも数万両作成され、アメリカからも数万両供与されたが、ほとんどは膨大な補給物資を必要とする戦車軍団・機械化軍団の補給用に回され、兵員輸送車として使う余裕は無かった。随伴歩兵は戦車・自走砲の手すりに掴って移動していた。これらはタンクデサントと呼ばれた。
牽引砲・自走砲は共に砲兵部隊で運用された。多連装ロケット砲をトラックに載せ、遠距離から大量の爆薬をばら撒く「カチューシャ」ロケット砲車が極めて有効活用された。トラックの荷台に簡易なロケット発射台を乗せただけの物であるが、一度に発射出来る数の多さがその長所であった。命中率こそ低いものの、同時点に制圧できる面積は砲に比べて遥かに広く、ドイツ軍陣地破壊に極めて有効で、ドイツ軍に恐れられた。
ドイツの戦車の大型化にあわせ、T-34は砲塔と主砲を大型化したT-34-85に代わり(1990年代まで発展途上国では現役であった)、KV戦車の後継としてIS-2スターリン重戦車が投入された。自走砲も新車台の登場で大型化が進んだ(ISU系自走砲)。
最終盤、後のロシア戦車の特徴となる、低姿勢の半円形の砲塔を持つIS-3重戦車が配備されたがヨーロッパにおける実戦には間に合わなかったとされる。IS-3 は戦後1970年代まで東側諸国や発展途上国で使用された。

2009年04月11日

テオルボ


テオルボ(英 Theorbo, 仏 Théorbe, 伊 Tiorba)はリュート族の撥弦楽器。16世紀末に現れ、バロック末期まで通奏低音楽器およびソロ楽器として幅広く使用された。同様の楽器でキタローネ(伊 Chitarrone)と呼称されるものもある。

この時代の楽器は現代の楽器のように標準化されていないので、テオルボと呼称される楽器でも大きさや形状が様々異なるオリジナル楽器が知られている。ここでは、テオルボと呼ばれる楽器の一般的な特徴を叙述する。

胴体(ボディ)はリュート同様、洋梨を半分に割ったような後ろ側が丸い形状を持っており、そこに長いネックが取り付けられている。ボディーは、通常のリュートよりも大きく、ネックの長さは1メートル前後のものが多い。通常のリュート同様、指板が取り付けられる部分に更に拡張ネックと呼ばれる竿状の長いネックを取り付けている。弦はルネサンスリュート等とは違い通常単弦(1コース1弦)である。指板のあるネック部分にとり付けられている弦をストップ弦 (stopped string)[1]、竿状の長いネックに取り付けられた弦を拡張バス弦 (extended bass string) 等と呼ぶ。ストップ弦は、リュートやギター等と同様、指板に押し付けて音程を変化させ演奏するが、拡張バス弦は専ら開放弦で用いる。ストップ弦は長さ70cmから90cm程度、拡張バス弦は長さ150cmから170cm程度のものが多い。テオルボは14コース(すなわち14弦)の楽器が最も一般的であるが、14本の弦のストップ弦と拡張バス弦への振り分けは様々であるが、(ストップ弦)+(拡張バス弦)が6+8、7+7のものが多い。調弦法は歴史上様々なものが知られているが、1コースがAから始まる下記のような調弦が最も一般的である。

上記のような特徴を持った楽器の一部はしばしばキタローネ(伊 Chitarrone)と呼ばれることもあるが、このことはテオルボ・キタローネの出現の歴史と関係している。

キタローネと名前のつく楽器は1580年頃にフィレンツェのカメラータで用いられ始めたと思われている。1589年のフェルディナンド・デ・メディチとフランスの王女クリスティーヌ・ドゥ・ロレーヌの結婚を祝う祝祭の音楽のための音楽を作ったひとりであるクリストファーノ・マルヴェッツィ (Christfano Malvezzi) は、1592年の出版譜の中で、この祝祭の際に「ヤコポ・ペーリがキタローネの弾き語りで歌った」と記録している。また、ジュリオ・カッチーニは「新音楽」(Le Nuove Musiche 1601) の序文の中で「歌、特にテノールの歌の伴奏にはキタローネが他のいかなる楽器よりも適している」という記述を残している。カメラータの活動は、古代ギリシアの音楽悲劇の再現を目的にしており、キタローネの名はギリシア語のkitharaからきている[2]。このように、カメラータでのモノディ草創期にはキタローネは非常に重要な楽器と見なされていた。

この、カメラータのキタローネがどのような楽器であったかは詳しくわかっていない。アレッサンドロ・ピッチニーニは、1623年の「リュートとキタローネのためのタブラチュア集」の序文の中で、拡張バスは自分がアーチリュート(伊 arciliuto)を発明したときに初めて出現し、それは1594年のことであった、と主張している。ロバート・スペンサーはこれを受けて、カメラータのキタローネはバスリュートを4度上に調弦し、1コースと2コースを1オクターブ下げたものだったのではないかと推測しているが[3]、このことに確証はない。

いずれにせよ、残されているオリジナル楽器などから、1600年から1610年頃には前項で記述したような拡張バス付きの楽器が急速にイタリアで広まり、相当数の楽器が作られたことがわかる。エミリオ・デ・カヴァリエーリが1600年にローマで上演した「魂と肉体の劇」(Rappresentatione di Anima, et di Corpo...) では、「キタローネまたの名をティオルバ」(un Chitarone, ò Tiorba che si dica) が用いられたと記録されていることもこの観測と合致している。17世紀前半には(拡張バス付き)のキタローネは通奏低音楽器としてイタリアを中心に広範囲で用いられ、この時期にはキタローネ用のタブラチュア集も多く出版された。

すでに述べたように、1600年の時点でtiorba(ティオルバ=テオルボ)の呼称が用いられており、文献中の tiorba の用例も多く見られることから、この呼称も一般的に用いられていただろうが、キタローネとの違いを主張する用語であったのか、単に別名であったのかは判然としない。

フランスやイギリスでテオルボが本格的に用いられるようになったのは17世紀後半からであるが、これはフランスにおいてはマザラン卿らによるイタリア音楽の積極的な輸入、イギリスにおいても、イタリア風モノディ・オペラの伝播の時期と一致している。フランスにおける独自のバロック様式の発展、また、イギリスにおけるイタリア風オペラの流行によってこれらの地域でもテオルボは通奏低音楽器として盛んに用いられた。フランスにおいてはリュートが衰退した後も、通奏低音楽器として長く生き残った。バロック期のドイツでもテオルボは用いられていた。このことはドイツの博物館にテオルボが残されていることや、ドイツで制作されたオリジナル楽器が存在することなどからもわかる。しばしばジャーマンテオルボと呼ばれる楽器の中には、バロック期のリュートにおけるバロックリュートと同じニ短調調弦のための楽器が多く存在し、これらはバロックリュートの一種と見なされる。

17世紀末にはテオルボの果たしていた役割は徐々にアーチリュートに置き換えられていったとする見方もある。これは、バロック中期以降、通奏低音パートがヘ音記号の五線の上にまで上るような比較的高い音を用いるような作曲法が主流になり、1コース及び2コースを1オクターブ下げているテオルボではこれらのバス音の上に和声を付けられないのがその一つの理由であると考えられている。それでも、テオルボはバロック最末期まで通奏低音楽器として用いられ続けたが、古典期になると姿を消した。

しかしこのような議論には問題もある。実際にテオルボとアーチリュートを区別する基準はそれほど明確ではないからである。より詳細に同時代の文献を調べると、実に様々なタイプの拡張バス付きリュート族の楽器が存在していたことがわかる。ヨーロッパ各地の博物館に残されているオリジナル楽器の多様性からも同じことが言える。初期のキタローネは、ボディ、拡張ネックともに大きく、ストップ弦長が90cm、拡張バス弦長が170cm、全長が2mにもおよぶオリジナル楽器が多く残されている一方で、ずっと小振りの楽器も残されている。ウィーン美術史博物館に残されている、ヴェネツィア1610年頃制作の拡張弦付き楽器(カタログ番号SAM 41, C45)は、ストップ弦が複弦であり、弦長もストップ弦が67cm、拡張バス弦長が140cmの楽器であるが、これをウィーン美術史博物館はキタローネとしてカタログに掲載している。その一方で、この楽器は中期バロック以降の標準的なアーチリュートに近い仕様を持っているため、一部の音楽家、演奏家はこのモデルをアーチリュートとして認識しているようである[4]。17世紀前半にこのような仕様を持ったモデルは複数存在しているがこれがどのような調弦で用いられていたかわからないために、キタローネ=テオルボとアーチリュートの間の区別は楽器個体の仕様による区別というよりは、調弦やその音楽への使用法による区別だと見なすこともできる[5]。

レパートリー [編集]
テオルボ(キタローネ)はその黎明期からまず第一に通奏低音楽器としての役割をあたえらえていた。モノディー歌曲や、それを受け継いだヴェネツィア風のオペラ、また、フランスで独自に発展したバロック様式においてつねにテオルボは通奏低音楽器として用いられていたので、これらの曲目はテオルボの主要なレパートリーと見なすことができる。一部のテオルボの名手たちは、テオルボのためのソロレパートリーを残している。

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2009年03月27日

自己

心の哲学はまた、自己の概念に重大な帰結をもたらす。これまで我々は「自己」「私」といった概念で本質的で不変的な人間の《核心部分》を指してきたが、最近になって心の哲学者たちは、自己のようなものは存在しないと断言している。[70] 普遍的で本質的な核心部分としての自己という考えは、デカルトの非物質的魂という考えから引き出されている。物理主義的な哲学者のスタンスと、ヒュームが行った自己という概念への懐疑が哲学者たちに広く受け入れられていることもあって、非物質的な魂といった考えは、最近の哲学者たちには受け入れられない。ヒュームは、彼自身が何か行うこと、考えること、感じることを捕まえることができなかったのである。[71] しかし、発達心理学や発達生物学、神経科学から得られた経験的成果に照らしてみると、本質的でかつ非連続的で物質的な《核心部分》、すなわちシナプスの結合という変化するパターン上にばらまかれた統合的表象システムといったものは、妥当なものであると言えそうである。

思考実験
哲学的ゾンビ
逆転クオリア
マリーの部屋
チューリングテスト
中国語の部屋
培養槽の中の脳
スワンプマン

研究者
ジョン・サール 生物学的自然主義を唱え、意識の物質への因果的な還元は可能であるとしながらも、存在論的な還元は不可能であるとを主張する。
ダニエル・デネット
ポール・チャーチランド 消去主義的唯物論を唱え、素朴心理学の概念は、やがて神経科学の概念によって全て置き換えられるだろう、と主張する。
デイヴィッド・チャーマーズ - 心の哲学者チャーマーズ(現在オーストラリア国立大学哲学教授)は、現代の物理学を拡張し、クオリアを一つの実体(英:entity)として扱うことの必要性を訴える。また意識のハードプロブレムの提唱者。チャーマーズ自身はハード・プロブレムは現代の物理学の範囲内では解決不可能だとしている。心身問題への解答、つまりチャーマーズ自身が言うところの精神物理法則のありかたは、機能主義的なアプローチによって解決されるはずだと主張している。
信原幸弘 - 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部 広域科学専攻 科学技術基礎論講座 助教授
柴田正良 - 金沢大学大学院人間社会環境研究科・文学部 人間文化専攻 人間行動論コース 教授
河野哲也 - 玉川大学 文学部 人間学科 助教授
金杉武司 - 高千穂大学 人間科学部 准教授
ジーセ ヨガア シチュー タン総合 ハニート マイペー ブラカップ ローラー 冬の花火 マンダ ヤーン パンチカド オーバル クロマ 海眺望 トルエ ナンプラー シーオーイ インター ケット モブシ 京野 リンケ オーディ ユニコー オプテ クローザー ハーバ ナイタ スカップ パラド ショコラ ショート サイクリ ナサ ブルー ハロウィン ナックル 湾岸道路 ユンド ロールカ ロイシン テアフ ライフ プライス パワー センサス セオドラ ソフト ミラノ

その他 [編集]
意味の多義性を用いた言葉遊びの一種として、英語圏の心の哲学者たちによく知られている次のような一句がある。

2009年03月11日

カラクムル(Calakmul)

カラクムル(Calakmul)は、メキシコ、カンペチェ州にある先古典期後期から古典期にかけて繁栄したマヤ「中部地域」の大都市。1931年に発見され、その規模は30km?に及び、マヤ遺跡では最多の117基もの記念碑(恐らく石碑(Stela)のほかに祭壇やその他文字記録が刻まれた彫刻等の石造物を指す)が確認されており、ティカル(Tikal)と並ぶ古典期最大級の「都市」である。紋章文字(Emblem Glyph)は、蛇の頭で表現され、その旧名は、オシュテトウン(三つの石)と呼ばれていたこと、他の遺跡の碑文でも「蛇(カーン)」王朝という強大な国の首都として記述されていたことが最近判明している。

5世紀の初め頃の日付けを示す石碑や彩色土器が見つかっていることからカラクムルの王朝が始まるのはこの時期と考えられるが、王の即位日が長期暦(maya Long Count Calendar)で記されていないため時期が確定できない。一説によると「カーン」王朝がカラクムルを首都としたのは6世紀に入ってからではないかと考えられている。 546年、トゥーン・カップ・ヒシュ王は、ナランホ(Naranjo)王アフ・ウォサルの即位を後見したことが記録されている。次の王は、「空を見る者」と呼ばれる王で562年に現ベリーズにあった「オシュウィツア」(カラコル)を支援して「ムトゥプル」(ティカル)を破り、以後中部低地において覇権を確立した。全盛期はタホーム・ウカッブ・カック(「燃え上がる手」)王(位622?630)、「ユクノーム頭」王(位630?636)、「大ユクノーム」(ユクノーム・チェン2世)王(位636?686)の時代である。タホーム・ウカッブ・カックのとき、626年、決別を図ろうとするナランホ王を2度にわたって破った。「ユクノーム頭」王のとき、631年にナランホに対して決定的な勝利をおさめ、その君主を屈辱的な殺し方で殺した。「大ユクノーム」王のとき、南方約180kmに位置するグアテマラ・ペテシュバトゥン地方に「ムトゥプル」(ティカル)の王族の一人が建てた新王朝のドス・ピラス(Dos Pilas)を支援して「ムトゥプル」を牽制した。しかし、次の王のユクノーム・イチャーク・カック(「燃え上がる鉤爪」「ジャガーの足」)王のとき、695年、復興した「ムトゥプル」(ティカル)の王ハサウ・チャン・カウィール1世に敗れて以後、急速に衰退した。

カラクムルで最大級の建物は、建造物2号で、一辺120m、高さは45mに達する。2002年に世界遺産に登録された。
プロフ幸 かぶらな とらが ラマダ オガタ ビラ 五色の雲 スポット パネラー 梅園 モラハラ カラー 知っ得 クラート アノレ シュホン ゲレンデ ペンイ カーハート カウガール ドラッ ゲーテ マジョラ ナベルト トバン ロドプシ ボルマーク 広場 ミキサー ボルダ トハングリー マッシ ビクトリ トリウム マグナカル モナコ バンパ フォトレ アッペ こまいぬ オキサイド テーラ ルーム はぐろ クセル スタブ 大麦若葉 けつがん ナツツ プラット

1984年から1994年にかけてウィリアム・フォーランによる調査が行われた。1994年からは、ラモン・カラスコに率いられたメキシコ国立人類学歴史学研究所の大規模な調査プロジェクトが実施中である。

2009年02月23日

ビン語

閩語(びんご)とは、シナ・チベット語族、シナ語派の言語の一つあるいは一群である。中華人民共和国の福建省、広東省東部及び西南部、海南省、浙江省南部、中華民国、シンガポール共和国、マレーシア及び各国の華僑・華人の一部の間で使用される。推定使用人口は7000万人程度である。閩語の各方言の違いは大きく、別々の言語とすることが多い。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ

中国のシナ語派の諸言語は、国単位での分布があることや、同系の共通語である普通話の存在や、漢字という共通の正書法の存在などから、伝統的には中国語という単一言語とし、各言語を十大方言もしくは七大方言として扱ってきた。

しかし、近年では、タイ・カダイ語族、ミャオ・ヤオ諸語、オーストロアジア語族、オーストロネシア語族など近縁の言語集団との対照研究や考古学、人類学などとの学際的研究も進んだ結果、閩語、粤語、呉語など、かつて方言とされたものが、口頭言語としては互いに通じないばかりでなく、その違いが基層言語の違いであることも判明し、ゲルマン語派内の相互の違いに匹敵することから、単一言語ではなく、複数言語の集合体と考えるのが一般的になった(王育徳、橋本萬太郎、諏訪哲郎、 Oi-kan Yue-Hashimoto, Jerry Norman、Paul K. Benedict など)。そしてこの集合体を漢語諸語(シナ諸語)という名前で呼ぶ場合もある。

この中では広義の福建語の、その他の漢語諸語(中国語の方言)との隔たりは大きい。王育徳の研究 (1960) によれば、閩南語アモイ方言の場合では、スワデッシュの基礎単語200語で比較した場合、北京語との類似性(同源語)は 48.9% に過ぎず、これはドイツ語と英語の 58.5% よりも少ない、つまり遠い。また呉語蘇州話とでは 51.40% 、広東語とでは 55.31% 、比較的近い客家語とでも 58.65% しか類似性はない。中華人民共和国の言語学者の研究(鄧曉華、李如龍、倪大白など)でも、漢語が単一の言語ではなく、特に広義の福建語がその中でも特異な性質を持っていることが指摘されている。

また、広義の福建語はさらに主に 5 方言に分かれ、他に明確に分類できない 2 方言グループがある。これらは、たとえ語彙が同じでも発音の差も大きく、会話するのには困難が大きく、一般に相互に通じないとされる。このため、別々の言語とすることが多い。

閩北語 - 建甌、松渓、政和、建陽、崇安など
閩東語 - 福州、福清、古田、福安など
莆仙語 - 莆田、仙游など
閩南語 - 厦門、泉州、漳州、竜岩など
閩中語 - 永安、三明、沙県など
大田土語、尤渓土語 - 大田、尤渓。上記5方言に囲まれた山間地域で、分類が困難。
閩贛語 - 邵武、光沢、建寧、泰寧。江西省の贛語との混合方言。さらに、順昌、将楽、明渓は、閩、贛、客家の三方言が混合した過渡的方言とされる。
福建省以外でも、閩南方言に属する方言として、広東省の東部沿岸で話される潮州語、海南省で話される海南語(広東省西南部の雷州方言はこれに近い)、浙江省南部で話される浙南閩語がある。また、閩東方言に属し、浙江省南部で話される蛮講などがある。

逆に福建省西部の長汀、上杭、連城、武平、永定、寧化、清流などでは、客家語が用いられている。

発音
各地の方言の発音を構成する要素の数には下記のような違いがある。

音素対照表 音素 閩語(広義の福建語) 客家語
(梅州) 広東語
(広州) 北京語
(北京)
閩東語
(福州) 莆仙語
(莆田) 閩南語
(厦門) 潮州語
(汕頭) 閩北語
(建甌) 閩中語
(永安) 大田土語
(大田) 閩贛
(邵武)
声母数 15 15 14 18 17 15 15 20 18 18 22
韻母数 46 40 76 85 41 34 36 46 76 68 40
声調数 7 8 7 8 6 6 7 6 6 9 4

語彙
発音の差を除いても、下記の例の様な語彙の差が多くみられ、意思疎通の障害となっている。

語彙対照表 類型 閩語(広義の福建語) 客家語
(梅州) 広東語
(広州) 北京語
(北京) 日本語
(東京)
閩東語
(福州) 莆仙語
(莆田) 閩南語
(厦門) 潮州語
(汕頭) 閩北語
(建甌) 閩中語
(永安)
漢語共通 馬 馬 馬 馬 馬 馬 馬 馬 馬 馬
漢字 漢字 漢字 漢字 漢字 漢字 漢字 漢字 漢字 漢字
閩語共通 箸 箸 箸 箸 箸 箸 筷只、箸只 筷子 筷子 箸
鼎 鼎 鼎 鼎 鼎 鼎 鑊頭 鑊 鍋 中華鍋
鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄蛋、鷄春 鷄蛋、鷄子兒 鶏卵
内陸部で客家語と共通 犬姆 狗母 狗母 狗母 狗? 狗? 狗? 狗? 母狗 雌犬
? ? ?・?仔 ? 早子 禾 禾 禾 稻子 稲
各地で異なる 汝各儂 汝輩 恁/您 恁/您 你伙人 汝儕 你等人 你?、妳? 你們 あなたがた
琵琶兜壁 鳥翕 蜜婆 蜜婆 比婆 卑婆燕 帛婆仔 飛鼠、蝠鼠 燕麼虎兒 コウモリ
明旦 逢早 明仔日、明仔再 明起、明日 明朝 明朝 天光日、晨朝日 聽日、聽朝 明天、明儿 明日

2009年02月06日

マチュ・ピチュ

マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、現地語では「老いた峰」の意味で、よく保存されたインカの遺跡である。ペルーのウルバンバ谷 (Urubamba valley) に沿う高い山の尾根(標高約6,750ft、2,057m)に位置し、山裾からはその存在を確認できない。しばしば《インカの失われた都市》あるいは《空中の楼閣》と呼ばれる。この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13Km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。マチュ・ピチュには未だに解明されていない多くの謎がある。
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熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。行政上クスコと同じ地域に属している。現在ペルー国内では10ヶ所あるユネスコの世界遺産のうちでは最初にクスコと同時(1983年)に指定された。

イェール大学の歴史家であるハイラム・ビンガムは、1911年7月24日、この地域の古いインカの道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。
ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は、ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号のすべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また、1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載されており、説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽の処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。

マチュピチュとは間違えて付けられたといわれている説がある。遺跡に名前は決まっておらずビンガムが地元民にあれは何かと聞くと地元民は今、立っている山の名前を聞かれたと思いマチュピチュと答えたため、この遺跡はマチュピチュという名前なのだと間違って伝わったとされている。

ビンガムはイェール大学の教職を辞してから、コネチカット州の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後も40年近くにわたって強く残った。それは一つに彼の情熱的な文章のせいであった。

ただし、最近になり、マチュ・ピチュはすでにペルー人が発見していたという説が浮上した。それによると、クスコの農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い1902年7月14日にマチュ・ピチュを発見したという。真偽のほどは今後検証されるであろうが、ビンガムの息子がその事実を述べているということ、またこの人物について複数の証言があることからも、事実である可能性は高い。

最近の研究成果
一方、第一人者としてのビンガムのマチュ・ピチュに関する発表や仮説がその後の研究の妨げになっていたのも事実である。

イェール大学のピーボディ博物館の館長リチャード・L・バーガー(Dr.Richard L.Burger)、並びにルーシー・C・サラザール(Dr. Lucy C.Salazar)らによれば、マチュ・ピチュはスペイン人によって追い詰められた最後の砦ではないとの結論となった。16世紀のスペイン公文書によれば、わずかに抵抗していた最後のインカ族は、「1572年熱帯の盆地の隠れ家で降伏した」との記述があり、それはマチュ・ピチュのような高地ではなかった。

現在では要塞ではなく、東西が断崖のマチュ・ピチュは太陽の動きを知るのに絶好の場所であったことや、インカ帝国では太陽を崇拝し、皇帝は太陽神の子として崇められ、暦を司っていたことから、インカ人が崇めていた太陽を観測するための建物群と推測されている。実際に太陽の神殿は東側の壁が二つ作られていて、左の窓から日が差し込む時は冬至、右の窓から日が差し込む時は夏至と区別できるようになっている。また、処女たちを生贄にしたといわれてきた台座上の遺構もやはり太陽を観測するものであり、インティワタナ(太陽をつなぐもの)という意味の石の台の削りだされた柱は、一種の日時計だったと考えられている。

また、ビンガムがマチュ・ピチュから運搬してきた多数の人工遺物が、1920年代のニューヨーク・タイムズ紙の包装のまま箱に梱包され、イェール大学の地下倉庫で眠っていた。サラザール博士はブロンズの宝飾品、道具類、骸骨片、特に壺について再調査を行った。その結果、壷の様式は全て、15世紀のものであった。墓の埋蔵物については、質素なものが多く、王族ではなく召使のものと推定された。 

ビンガムは、同行した骨学者に「出土した骨は女性の骨が大半だった」との誤った報告を受けていた。チュレーン大学の身体人類学者ジョン・W・ヴェラノ(Dr.John W.Verano)の新しい研究で、骨は男女同じ比率であったこと、多くの家族と幼児が生活していたこと、また処女たちの共同生活を示すようなものはなかったと報告している。骨の分析では、結核や寄生虫のケースが見られ、また、トウモロコシの食生活による歯の損傷も見られるものの、ほとんどは大人で50歳以上の年寄りが多くおり、その結果ここでの生活はかなり健康的であったと判断された。また、骨には戦いの形跡は見られず、平和な生活をしていたと考えられる。幼年期に頭部に巻きつけられたもので頭部の変形しているものがあり、ある者は海岸地域やあるいはチチカカ湖方面からと地域によって異なる文化があったことがわかっており、遠方からやって来た職人たちであろうと推定された。高度な石積みの技術が必要なため、職人たちが呼ばれたと考えられている。王族がマチュ・ピチュで死亡した場合は、そこで埋葬されるよりもクスコに運んで埋葬されたと考えるのが妥当と結論づけられた。

カリフォルニア大学バークレー校のジャン・ピエール・プロツェン(Dr.Jean-Pierre Protzen)建築学教授は、石垣をぴったりと重ねて積む方法は石で石を叩いたり、削ったりしたと考えている。この方法を敲製(ペッキング)という。あらかじめ大きく割った石を、小型の叩石(ハンマー)で連続してトントンと細かく叩いて表面をならしてゆく方法である。この方法は、すでにプレ・インカ(インカ期以前の古い時期)から行われていたことがわかっている。 当時巨石文明が世界各地で見られ、その運搬手段は解明されつつあったが、マチュ・ピチュの場合は傾斜路を造る余地がないため、どうやって5-10tもある巨石を運び上げたかはまだ謎[1]であるとしている。また、「ビンガムの発掘ノートは、何を発掘したかよりも何を食べたか、の記述が多かった」とも公表された。

最近の調査では、地下から焼けた跡が発見されたことなどから、スペイン人による侵略を恐れて住民が町を焼き払った、という説が研究者から指摘されている(『古代文明ミステリー 「たけしの新・世界七不思議」』、テレビ東京、2007年1月3日放送より)。

人口は最大でも750名
この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものであった。

遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。

この都市はインカの王パチャクティ(Pachacuti)の時代の1440年頃に建設が着手され、1532年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々の生活が続いていた。

ペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガーラ (Dr.Alfredo Valencia Zegarra)とコロンビアの水利技術者ケネス・ライト(Kenneth Wright)による調査では、この都市の建設に要した努力の60%は急傾斜の城壁の見えない土台などの部分に傾注されており、降雨量の多いこの地で、積み上げられた石積みが500年もの間崩れないのは、農耕のためだけに斜面を整地したのではなかった。渓谷から細かい砂と表土を運び上げ、現在見える石積みの下に、うね状に盛り上げた表層を造ったとしている。

神をまつる神殿としての役割
なぜこのような急峻な山の上に造ったかという質問に対して、ラファイエット単科大学のナイルズ(Dr.Niles of Lafayette College)は、「パチャクチがこの場所を選んだのは……圧倒する景色としか答えようがありません」と言う。

イェール大学の近年の研究成果では、高地であり、かつ両側が切り立った崖上になっているため、太陽観測に最も適し、かつ宗教的理念として、太陽に近いところである、という点が場所選定の理由として挙げられている。

急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、頂上にはインティワタナ(Intihuatana…太陽をつなぎ止める石)が設置されている。夏至と冬至が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したとも言われている。

インカの神は日本やエジプトと同じく太陽神であるため、太陽により近い山の頂(いただき)は儀礼場として適当だった。

神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神が人間に下賜されたものとして人々に食べられたか、いずれにしても宗教儀礼的意味が色濃く反映されている。そのようないきさつから、現在、マチュピチュは宗教都市として捉えられている。

なおインカの人々にとっての神は、太陽とともに月も挙げられ、多くの遺跡には太陽神殿と月の神殿が対で祭られている。マチュ・ピチュの太陽神殿に対しては、ワイナ・ピチュ(「若い峰」という意味で、マチュ・ピチュの背後にある尖った山)の裏手に、月の神殿が洞窟に作られている。

2009年01月22日

軍服 (中華民国)

中華民国の軍服(ぐんぷく)とは、中華民国建国以降、中華民国軍で使用されている軍服である。

辛亥革命直後は、各地の軍閥がそれぞれ独自の軍服を着用していた。地域によって差はあるが、日本陸軍の軍服の影響が比較的強かった。特に、軍帽の形状、服地色などに表れている。但し、中山服(人民服も参照)が使用されていたこともあり、日本に比べて早くから折襟の軍服が広く用いられていた。

ドイツの軍事援助を受けていた時代。ドイツの影響については、ドイツの軍服・中独合作も参照。ドイツ軍型のヘルメットや略帽が用いられた。

もっとも、全国の中華民国軍で一律の服制が用いられていたわけではなく、各地の部隊(軍閥)によって軍服の形状の差異は残っていた。

18世紀後半にイギリスから独立して以降のアメリカ合衆国の軍服は、旧宗主国のイギリス軍の要素に、19世紀に各国陸軍の模範とされたフランス、その他の要素を加味しながら、概ね同時期のヨーロッパの軍服の発達の流れに沿う形で変化して来た。20世紀初頭までは、ヨーロッパ各国の折衷ないし最大公約数的な要素が強かったといえるが、ヨーロッパに比べて士官制服にも貴族的・装飾的要素が希薄なことや、全体に実用性が重視されることなど、現在に至るこの国の軍服特徴といえる諸要素はすでに現れていた。

アメリカ合衆国の軍服が真にその個性を確立するのは、20世紀に入って各国の軍服が原色系の生地色や装飾性を排していく過程においてであり、同国の軍服は、こうした流れに最も適合的な存在の1つとなった。とくに第二次世界大戦後、アメリカ合衆国が東西冷戦における西側陣営の盟主となるにともない、東側陣営の盟主たるソ連軍とならんで、世界各国の軍服に最も大きな影響を与える存在となった。東側陣営が解体した1990年代以降は、この傾向がさらに強まって現在に至っている。

またドイツや日本、ロシアといった国々の軍服と比較すると、アメリカ合衆国の軍服の変遷は、南北戦争などを例外として、政治体制の変化に沿って変遷の画期を設定することが困難であり、むしろ同国が関わった戦争に伴って生じた実用面での変化の要素が大きい。

軍服以外の衣服やファッションに取り入れられた要素・与えた影響も大きなものがある。同様に日常の衣服に取り入れられたイギリス軍のトレンチコートなどと比べると、よりカジュアルな形で、かつ若年層に受け入れられているのは興味深い。

以下、まず陸軍軍服について、同国が関わった主要な戦争を軸に時代ごとの変遷を概観し、ついで他の軍種の軍服について述べることとする。
ドイツの軍服(ドイツのぐんふく)は、1871年から現在に至るドイツ(ドイツ帝国、ヴァイマル共和国、第三帝国、ドイツ連邦共和国、ドイツ民主共和国)における軍服の変遷、および各国への影響について述べる。また、特にヘルメットについては「ドイツ軍のヘルメット」

兵士の士気を上げるため、ドイツ伝統の黒色の軍服や骸骨の章を採用するなどした。特にナチ親衛隊の軍服は最新の武器を優先的に与えられ、隊員自体も躯幹長大、容姿、運動能力に優れたドイツ人のみが選ばれたため軍服がさらに映えたものとなりナチス賛美がタブーとなった現代社会においても熱狂的な軍服ファンを持つことで知られる。

第二次大戦後のドイツでは、ドイツ連邦共和国(西ドイツ及び(1990年統一後のドイツ)のドイツ連邦軍の勤務服は立折襟を排して開襟ネクタイ式を採用、生地のグレーも明るめの色にするなどしてナチス時代との差別化をはかった一方、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の国家人民軍の軍服(1990年の東西統一まで)は、より旧来のドイツ軍の伝統を踏襲するデザインであった。

勤務服の上衣は従来の折襟から開襟ネクタイ式に変更、ズボンは第三帝国時代の長靴に対応した乗馬ズボンタイプのものから、短靴に対応したものに変更された。制帽と上衣は明るい灰色、ズボンはそれよりやや濃い目の灰色が用いられる。

帽章は、X字形に交差したサーベルを柏の葉が囲む意匠が胴部につき、クラウン部には円形章(外側から金・赤・黒の同心円)がつく。
尉官制帽の庇には銀色の波模様、佐官制帽の庇には1列の銀の柏葉、将官制帽の庇には2列の金の柏葉が飾られる。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

階級は肩章で表されるが、従来のモール編みの肩章が廃されて士官も含めて軟性タイプの肩章(兵科色の縁取りがつく)が用いられるようになった。尉官が銀色の星の数、佐官が銀色の半円形の柏葉のリースの上に銀色の星の数、将官が金色のリースの上に金色の星の数で表される。肩章には兵科色の縁取りがつくが、将官肩章は赤の縁取りの内側に金モールの縁取りが加わる。

襟章は従来のものがほぼ踏襲されたが、平行四辺形から長方形に変更。折襟から開襟ネクタイ式への変更に対応したものと思われる。

海軍
帽章は、錨を柏の葉が囲む意匠が胴部につき、クラウン部には円形章がつく。兵士は水兵帽のクラウン部に円形章のみがつく。
尉官制帽の庇には金色の波模様、佐官制帽の庇には1列の金の柏葉、将官制帽の庇には2列の金の柏葉が飾られる。[6]

階級は兵・下士官が肩章で、将校が袖の金線で表される。従来将校の上衣に併用されていた、陸軍に準じた肩章は廃され、他の多くの国で用いられている例に準じて、黒地に袖と同じ金線を配した肩章が夏服・コート・セーターに用いられるようになった。

空軍
第三帝国時代から開襟ネクタイ式の上衣が導入されていたことも手伝い、制服制帽の仕立て・配色等は3軍中従来からの連続性が最も強い。ただズボンは従来の乗馬ズボンタイプから、短靴の使用を念頭に置いた仕立てになっている。

帽章は、翼を柏の葉が囲む意匠が胴部につき、クラウン部には円形章がつく。
尉官制帽の庇には銀色の波模様、佐官制帽の庇には1列の銀の柏葉、将官制帽の庇には2列の金の柏葉が飾られる。[7]

階級は陸軍のパターンに準じた肩章で表される。

襟章は兵科色の長方形の台布に、兵・下士官が銀色の飛ぶ鳥の意匠、尉官が半円形の柏葉のリースの上に飛ぶ鳥の意匠、佐官が長円形の柏葉のリースの内側に飛ぶ鳥の意匠を配したものがもちいられる。第三帝国時代に用いられた襟章と類似しているが、階級ごとに飛ぶ鳥の意匠の数が変化して「階級章」の機能を果たすことはない。また将官襟章には陸軍将官と同じものが用いられる。

その他
ヘルメットは、従来のタイプのものがナチス・ドイツを連想させるため、国境警備隊を除いて使用が避けられ、米軍に近いデザインのものが用いられた。1980年代半ばからアメリカ軍を中心に各国に普及したいわゆる「フリッツ・ヘルメット」も同様に旧ドイツ軍を連想させるというからか、他の国に比べて導入が遅れていたが、1990年の東西統一をはさんで、90年代半ば頃から使用されるようになった。
ドイツ・オーストリアの警察や消防では、戦前までのデザインを踏襲したヘルメットが用いられている。

2009年01月15日

抗ウイルス薬(Antiviral drug)

ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

一般ヘルペスウイルス治療薬
一般ヘルペスウイルスに対する治療薬は以下が存在する。

アシクロビル(ゾビラックス®)
バラシクロビル(バルトレックス®)
ペンシクロビル(Denavir®)
ファムシクロビル(Famvir®)
ビダラビン(アラセナ-A®)
イドクスウリジン(IDU点眼液®)
ソリブジン(ユースビル®)
ブリブジン

サイトメガロウイルス治療薬
一般サイトメガロウイルスに対する治療薬は以下が存在する。

ガンシクロビル
バルガンシクロビル塩酸塩(バリキサ錠®):ガンシクロビルのL-バリンエステルのプロドラッグ
ホスカルネットナトリウム水和物(ホスカビル注®):サイトメガロウイルスのDNAポリメラーゼのピロリン酸結合部位に直接作用

インフルエンザウイルス治療薬
インフルエンザウイルスに対する治療薬は以下が存在する。

NA(ノイラミターゼ)阻害剤:A型、B型双方に効果
オセルタミビル(タミフル®):経口薬
ザナミビル(リレンザ®):吸入薬
アマンタジン(シンメトレル®):A型のみに効果、パーキンソン病の治療薬としても有効。
リマンタジン:A型のみに効果、日本では認可・発売されていない。

HIV-1感染症治療薬
日本国内で認可されているHIV感染症治療薬は以下が存在する。

核酸系逆転写酵素阻害剤(Nucleoside analogue RT Inhibitor:NRTI)
アジドチミジン、ジドブジン(AZT) 商品名(認可年):レトロビル®(1987)  
ジダノシン(ddI) 商品名(認可年):ヴァイデックス®(1992)
ジダノシン(ddI-EC) 商品名(認可年):ヴァイデックスEC®(2001)
ザルシタビン(ddC) 商品名(認可年):ハイビッド®(1996)
サニルブジン(d4T) 商品名(認可年):ゼリット®(1997)
ラミブジン(3TC) 商品名(認可年):エピビル®(1997)
ジドブジン/ラミブジン(AZT/3TC) 商品名(認可年):コンビビル®(1999)
アバカビル(ABC) 商品名(認可年):ザイアジェン®(1999)
テノホビル(TDF) 商品名(認可年):ビリアード®(2004)
エムトリシタビン(FTC) 商品名(認可年):エムトリバ®(2005)
アバカビル/ラミブジン(ABC/3TC) 商品名(認可年):エプジコム®(2005)
テノホビル/エムトリシタビン(TDF/FTC) 商品名(認可年):ツルバダ®(2005)
非核酸系逆転写酵素阻害剤(Non-Nucleoside RT Inhibitor:NNRTI)
ネビラピン(NVP) 商品名(認可年):ビラミューン®(1998)
エファビレンツ(EFV) 商品名(認可年):ストックリン®(1999)
デラビルジン(DLV) 商品名(認可年):レスクリプター®(2000)
エトラビリン 商品名(認可年):インテレンス®(2008)
プロテアーゼ阻害剤(Protease Inhibitor:PI)
インジナビル(IDV) 商品名(認可年):クリキシバン®(1997)
サキナビル(SQV) 商品名(認可年):インビラーゼ®(1997)
サキナビル(SQV-SGC) 商品名(認可年):フォートベイス®(2000)
リトナビル(RTV) 商品名(認可年):ノービアソフトカプセル®(1999)、ノービアリキッド®(1998)
ネルフィナビル(NFV) 商品名(認可年):ビラセプト®(1998)
アンプレナビル(APV) 商品名(認可年):プローゼ®(1999)
ロピナビル/リトナビル(LPV/RTV) 商品名(認可年):カレトラソフトカプセル®(2000)、カレトラリキッド®(2000)、カレトラ錠®(2006)
アタザナビル(ATV) 商品名(認可年):レイアタッツ®(2003)
ホスアンプレナビル (FPV) 商品名(認可年):レクシヴァ®(2005)
ダルナビル(DRV) 商品名(認可年):プリジスタ®(2007)
インテグラーゼ阻害剤
ラルテグラビル(RAL) 商品名(認可年):アイセントレス®(2008)
CCR5阻害剤
マラビロク 商品名(認可年):シーエルセントリ®(2008)
日本国内で治験中の抗HIV治療薬は以下が存在する。

融合阻害剤(Fusion Inhibitor:FI)
エンフュヴィルタイド(T-20) 商品名:フューゼオン®

HBV治療薬
日本国内で認可されているB型慢性肝炎ウイルス(HBV)に対する抗ウイルス薬は以下が存在する。

核酸系逆転写酵素阻害剤(Nucleoside analogue RT Inhibitor:NRTI)
ラミブジン(3TC) 商品名(認可年):ゼフィックス®(2000)
アデフォビル 商品名(認可年):ヘプセラ®(2004)
エンテカビル 商品名(認可年):バラクルード®(2006)

HCV治療薬
C型肝炎では内服薬を単独では用いず、併用してインターフェロンαを投与する。
リバビリン 商品名 レベトール®カプセル、コペガス錠®