すでに18世紀末、仙台藩の林子平は海国兵談で海防論を説き、幕末には経済学者佐藤信淵は土地国有化と海外進出を行う絶対主義国家を論じ、吉田松陰は幽囚録で蝦夷地開拓とともにカムチャッカ半島、朝鮮、台湾、満州等への侵略統治論を展開していた。それらの主張は尊王攘夷運動と明治初期の薩長藩閥政府にも少なからぬ影響を与え、朝鮮との国交交渉が進展しない明治政府内で武力による開国を迫るいわゆる征韓論が台頭した。
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1873年6月の閣議(いわゆる留守政府)において参議板垣退助が交渉の行きづまりを打開するため陸軍一大隊の朝鮮への派遣を主張、西郷隆盛は使節の派遣と自らその職への任命を主張、その後岩倉具視が帰国し内治優先の立場から使節派遣に反対の上奏をし、明治天皇の裁可により派遣延期となり参議西郷、板垣らが辞職する事態となった。(詳しくは征韓論、明治六年政変、西郷隆盛を参照)また大久保達はこれ以降、政治の実権を握る事になったが、いわゆる「征韓論」に対しては大久保らも、交渉決裂に際して朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではなかった。 この征韓論には1871年廃藩置県によって武士としての職を失った士族の不満が背景にあり、以後1873年徴兵令公布、1876年廃刀令、秩禄処分に至る過程で士族反乱が相次ぎ明治政府はこうした不満を海外に向ける必要もあった。